名言・格言
世界の偉人をはじめ経済人や有名人たちの言葉を集めました。
経営者、起業、独立、ビジネスリーダーを目指す貴方へ贈ります。
格言、アフォリズム( Aphorism)とは、人間の生き方、真理、戒め、武術、相場、商売などの真髄について、簡潔な、言いやすく覚えやすい形にまとめた言葉や短い文章。
ことわざが、庶民の生活の知恵から出たものであるのに対し、格言は、昔の聖人・偉人・高僧などが言い残した言葉や、古典に由来するものを言うことが多い。箴言(しんげん)、金言(きんげん)、金句(きんく)や警句を含む。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
名言集および格言集は、社会人にとって最大の宝である。
もし前者を適宜の場合に会話になかに織り込み、後者を適切なときに記憶に喚び起こすならば。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749年8月28日 - 1832年3月22日)はドイツの詩人、劇作家、小説家、哲学者、自然科学者、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。
その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も勤めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。
シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『イタリア紀行』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として「植物変態論」『色彩論』などの著作を残している。
自然科学者としての業績
ゲーテは学生時代から自然科学研究に興味を持ち続け、文学活動や公務の傍らで人体解剖学、植物学、地質学、光学などの著作・研究を残している。20代のころから骨相学の研究者ヨハン・カスパール・ラヴァーターと親交のあったゲーテは骨学に造詣が深く、1784年にはそれまでヒトにはないと考えられていた前顎骨がヒトでも胎児の時にあることを発見し比較解剖学に貢献している。
自然科学についてゲーテの思想を特徴付けているのは原型(Urform)という概念である。ゲーテはまず骨学において、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考え出し、脊椎がこれにあたると考えていた。1790年に著した「植物変態論」ではこの考えを植物に応用し、すべての植物は唯一つの「原植物」(独:de:Urpflanze)から発展したものと考え、また植物の花を構成する花弁や雄しべ等の各器官は様々な形に変化した「葉」が集合してできた結果であるとした。このような考えからゲーテはリンネの分類学を批判し、「形態学(Morphologie)」と名づけた新しい学問を提唱したが、これは進化論の先駆けであるとも言われている(星野慎一『ゲーテ』)。
またゲーテは20代半ばのころ、ワイマール公国の顧問官としてイルメナウ鉱山を視察したことから鉱山学、地質学を学び、イタリア滞在中を含め生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは1万9000点にも及んでいる。なお針鉄鉱の英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテに名にちなむものであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者によって1806年に名づけられた。
晩年のゲーテは光学の研究に力を注いだ。1810年に発表された『色彩論』は20年をかけた大著である。この書物でゲーテは青と黄をもっとも根源的な色とし、また色彩は光と闇との相互作用によって生まれるものと考えてニュートンのスペクトル分析を批判した。ゲーテの色彩論は発表当時から科学者の間でほとんど省みられることがなかったが、ヘーゲルやシェリングはゲーテの説に賛同している。
科学研究での日本語訳(近年刊行)
- 『自然と象徴 自然科学論集』 高橋義人・前田富士男編訳 (冨山房百科文庫、初版1982年)
- 『色彩論 完訳版』 高橋義人・前田富士男ほか訳 (全2巻+別冊:工作舎、1999年) ISBN 9784875023203
- 『色彩論』 木村直司訳 (ちくま学芸文庫、2001年) ISBN 9784480086198
- 『ゲーテ形態学論集 植物篇』、『動物篇』 各.木村直司編訳 (ちくま学芸文庫、2009年3-4月)
- 『ゲーテ地質学論集 鉱物篇』、『気象篇』 同上 (ちくま学芸文庫、2010年6-7月)
- 『ゲーテ全集.14 自然科学論』 木村直司・高橋義人ほか訳 (潮出版社、新版2003年)
ゲーテと音楽
ゲーテの作品には非常に多くの作曲家が曲を付けている。特に重要なのは『魔王』『野ばら』『糸をつむぐグレートヒェン』『ガニメデ』などのフランツ・シューベルトに よる歌曲であり、シューベルトが生涯作曲した600曲もの歌曲のうち70曲ほどがゲーテの作品に付けられた曲である。ゲーテ自身は曲が全面に出すぎて素朴 さに欠けるとしてシューベルトの曲をあまり好まなかったが、シューベルトの死後の1830年に『魔王』を聴くと「全体のイメージが眼で見る絵のようにはっ きりと浮かんでくる」と感動し評価を改めた。
ゲーテの音楽観は保守的なものであり、たとえば歌曲については民謡を理想とし、カール・ツェルターやヨハン・ライヒャルトらの作曲を好んだ。他にゲーテが評価した音楽家としてはウォルフガング・アマデウス・モーツァルトが おり、『ファウスト』に曲をつける権利があるのはモーツァルトだけだとも語っていた(エッカーマン『ゲーテとの対話』)。モーツァルトに言及した多くの文 章も残っており、特に彼の音楽を「悪魔が人間を惑わすためにこの世に送り込んだ音楽」と評した言葉はよく知られている。モーツァルトのゲーテ歌曲には『す みれ』があり、特に早いゲーテ歌曲の一つであるが、モーツァルトは作曲した時ゲーテの作だとは知らなかった。
またゲーテはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにも高い評価を与えていた。初めて『運命』を聴いたときには非常に動揺し、「みんなが一斉にあんな音を同時に演奏したらどうなってしまうのだ、建物が壊れてしまうではないか」と言っていた(前掲書より)。ベートーヴェンもゲーテを尊敬し劇音楽『エグモント』やカンタータ『静かな海と楽しい航海』などゲーテの作品に曲をつけている。2人は1812年にカールスバートの温泉地で対面しており数日間の交流を持ったが、ゲーテはベートーヴェンの難聴に同情しつつもその陰気さや無礼さを嫌った。ほかにゲーテと親交のあった作曲家にはフェリックス・メンデルスゾーンがおり、序曲『静かな海と楽しい航海』などを作曲している。
ゲーテの作品のなかで最も多く曲が付けられているのは『ファウスト』であり、オペラだけでも50もの作品が作られている。『ファウスト』に基づく音楽で代表的なものは、エクトル・ベルリオーズの『ファウストの劫罰』(1846年)、シャルル・グノーの歌劇『ファウスト』(1859年)、アッリーゴ・ボーイトの歌劇『メフィストーフェレ』(1869年)、ロベルト・シューマンの『ファウストからの情景』(1844年-1859年)、フランツ・リスト の『ファウスト交響曲』(1857年-1880年)、グスタフ・マーラーの『交響曲第8番』(1906年)など。先に挙げたシューベルトの「糸をつむぐグレートヒェン」なども『ファウスト』からの曲である。
この他にゲーテの作品に基づく有名な音楽作品として、シューマン『ミニョンのためのレクイエム』、トマの歌劇『ミニョン』、ブラームスの『ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章』(アルト・ラプソディ)、マスネの歌劇『ウェルテル』、デュカスの『魔法使いの弟子』などが挙げられる。
受容と影響
ゲーテの晩年にはドイツでロマン派の文学が興隆し、その理論的支柱であったシュレーゲル兄弟をはじめ多くのロマン派の作家はゲーテ、シラーを範と仰いだ。しかし晩年「世界文学」を唱えるようになったゲーテはロマン派の国粋的な面を嫌うようになり、「ロマン派は病気だ」と言って批判的な立場を取った。ゲーテが死んだ翌年の1833年にはハインリヒ・ハイネがその死を受けて『ドイツ・ロマン派』を執筆し、同時代のドイツ文学の状況を総括した。
また近代言語学の祖であり『グリム童話』の編者でもあるヤーコプ・グリムが作成した『ドイツ語辞典』にはゲーテの全作品から非常に多くの引用が取られており、辞典の序文には「彼の著作から僅かでも欠如するよりは、他の人々の著作から多く欠如したほうが良い」と書かれている。マルティン・ルターによるドイツ語訳聖書によって大きく発展した新高ドイツ語がゲーテによって完成させられたことは今日では定説となっている(木村直司「ゲーテ像の変遷」)。
ゲーテはフランス革命の際に保守的な反応を取ったことから左翼的な思想の持ち主からはしばしば「偉大な俗物」と言われ批判を受けた。文学史上ではハイネやルートヴィヒ・ベルネ、青年ドイツの作家が彼の批判者である。もっともカール・マルクスは「ゲーテは偉大な詩人であるだけでなく、最も偉大なドイツ人の一人である」と述べており、レーニンもまたゲーテを愛読し、1917年に国外に逃亡した際にはネクラーソフの詩集とともにゲーテの『ファウスト』を携えていった(星野、前掲書)。
ゲーテの人気は19世紀なかばごろ一時下火となったが、1876年に発表されたヘルマン・グリムによる『ゲーテ』によってやや神格化を被りつつ人気が再燃した。1885年にはグリムが中心となってヴァイマルにゲーテ協会が設立され、今日に至るまでゲーテ研究の中心となっている。20世紀に入って以降もゲオルゲ、ホーフマンスタール、リルケらの詩人がゲーテの詩を範と仰ぎあるいそこからは霊感を受けており、またノーベル文学賞を受賞したトーマス・マンはゲーテをドイツ人の代表者として頻繁にエッセイや講演で論じ、晩年にはゲーテを範として長編『ヴァイマルのロッテ』『ファウスト博士』を執筆している。1927年にはゲーテを記念しフランクフルト・アム・マインでゲーテ賞が設けられており、戦後ビューヒナー賞にとって替わられるまで長くドイツ文学においてもっとも権威ある賞として機能した(三島憲一『戦後ドイツ』)。
日本における受容
日本では1871年(明治4年)に初めてゲーテの名が紹介されたが、本格的な受容が起るのは明治20年代からである。作品の翻訳は1884年(明治17年)、井上勤が『ライネケ狐(Reineke Fuchs)』を『狐裁判』として訳したものが最初で、この訳は当初自由出版社から出されていたが1886年(明治19年)に版権が春陽堂に移って新たな初版が出され、1893年(明治26年)までに5版が出るほどよく読まれた。1889年(明治22年)には森鴎外が訳詩集『於母影』においてゲーテの詩を翻訳し、特にその中の「ミニヨン」の詩は当時の若い詩人たちに大きな影響を与えた。鴎外はゲーテを深く尊敬しており、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の翻訳や『ファウスト考』『ギョッツ考』などの論考を著し、1913年(大正2年)には日本初の『ファウスト』完訳を行なっている。
日本では明治20年代から30年代にかけては若手作家の間で「ウェルテル熱」が起り、島崎藤村、平田禿木、戸川秋骨、馬場孤蝶ら『文学界』同人の作家を中心に『若きウェルテルの悩み』が熱心に読まれた。特に島崎藤村は晩年までゲーテを愛読しており、随筆『桃の雫』(1936年)の中でゲーテに対する長年の思いを語っている。外国文学に批判的だった尾崎紅葉も晩年にはゲーテを熱心に読み、「泣いてゆく ヱルテルに会う 朧かな」を辞世の句として残した。また『ウェルテル』と並んで『ファウスト』も若い作家の間で熱心に読まれていた。文壇に「ウェルテル熱」が起る前に早世した北村透谷は『ファウスト』を熱心に読んでおり、『蓬莱曲』などの作品を書く上で大きな影響を受けている。倉田百三は代表作『出家とその弟子』を書く際、鴎外訳の『ファウスト』から様々な影響を受けたことを語っており、国木田独歩も『ファウスト』を熱心に読み影響を受けたことを『欺かざるの記』のなかで繰り返し述べている。他にゲーテを愛読しゲーテについての著述を残している者に長与善郎、堀辰雄、亀井勝一郎などがいる(以上、星野『ゲーテ』より)。
1931年(昭和6年)には日本ゲーテ協会が創設され、ドイツ文学の研究・紹介を行っている。また関西ゲーテ協会の主催で毎年ゲーテの誕生日の夜に「ゲーテ生誕の夕べ」が開催されており、そこではゲーテにちなんだ歌謡のコンサートや講演が開かれている。1964年(昭和39年)には実業家粉川忠によって東京都北区に東京ゲーテ記念館が立てられており、日本語の翻訳本や原著だけでなく世界中の訳本や研究書、上演時の衣装などを含む関連資料を所蔵する世界的にも類例のない資料館となっている。
ゲーテ (Goethe) のドイツ語での発音は日本人には難しいこともあり、日本語表記は、古くは「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」など数十種類にものぼる表記が存在した。このことを諷して斎藤緑雨は「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳を詠んだ(矢崎源九郎『日本の外来語』参照)。
著作一覧
小説
- 若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、1774年)
- ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(Wilhelm Meisters Lehrjahre、1796年)
- 親和力(Die Wahlverwandtschaften、1809年)
- ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代(Wilhelm Meisters Wanderjahre、1821年)
戯曲
- ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン(Gotz von Berlichingen mit der eisernen Hand、1773年)
- タウリス島のイフィゲーニエ(Iphigenie auf Tauris、1787年)
- エグモント(Egmont、1788年-1789年)
- トルクワト・タッソー(Torquato Tasso、1790年)
- ファウスト 悲劇第一部(Faust, der Tragodie erster Theil.、1806年)
- ファウスト 悲劇第二部(Faust, der Tragodie zweyter Theil.、1831年)
詩集
- アネッテ(Annette、1767年)
- 新詩集(Neue Lieder、1769年)
- 雑詩集(Vermischte Gedichte、1789年)
- ライネケ狐(Reineke Fuchs、1794年) - 叙事詩
- ローマ悲歌(Romische Elegien、1795年)
- ヘルマンとドロテーア(Hermann und Dorothea、1798年) - 叙事詩
- 西東詩集(West-ostlicher Divan、1819年)
- 情熱の三部作(Trilogie der Leidenschaft、1827年)
その他
- 色彩論(Zur Farbenlehre、1810年) - 科学論文
- わが生涯より 詩と真実(Aus meinem Leben: Dichtung und Wahrheit、1811年) - 自叙伝
- イタリア紀行(Italienische Reise、1816年-1817年) - 旅行記
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